七尾城は中世の頃石見全域に勢力を誇った益田氏の居城です。益田氏は最初、御神本氏(みかもとし)を名乗っていましたが、壇ノ浦の軍功で石見の押領使(おうりょうし)となった兼高(かねたか)の時益田に移住し、益田氏とあらためました。この城は益田兼高が建久3年(1192年)に築城を始めたといわれます。
弘治2年(1556年)頃、19代益田藤兼(ふじかね)が、対毛利戦に備えて大規模な改修工事を行っており、現在の遺構の大部分はこの時のものと考えられています。益田藤兼は、大内氏と尼子氏の間を揺れ動き、更に大内氏から陶氏(すえし)へ、陶氏が毛利氏に討たれると、毛利氏に従うという苦悩の変遷を繰り返して、益田家を守り通しました。
関が原の戦い後、益田元祥(もとよし)は、毛利輝元(てるもと)の家老として須佐に移り、毛利家の財政再建に力をつくしました。こうして益田氏は400年の歴史とともに七尾城も廃城となりました。山上からは、豊かな益田平野と日本海を一望でき、眼下に天然の堀益田川、西方には、清流高津川があります。山紫水明、防備、交通、農産、海産物の拠点として、石見一の豪族益田氏が当地を選んだことがうかがえます。
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